シーラという子 [洋書を読む]
6歳で傷害事件を犯し、著者の受けもつ情緒障害児教室にきたシーラ。垢だらけで拒絶と敵意の塊だった少女が、性的虐待や暴力による心の傷を乗り越え、愛と癒しを見いだしていく姿を描いたノンフィクション。(Amazonより抜粋)
以前『異邦人』で、『面白い本を見つけると、同じ著者の本、同じジャンルの本、その著者が推薦している本、その本が扱っている内容に関連する本、などを次々に買ってきて読む』と書きましたが、この本がまさにそれにあたります。この本を読んだあと、幼児虐待や心理学などに関する本をかなり読みました。だから他の本と違って、この本の内容はけっこう細かいところまで覚えていて、こっちにきて洋書を読もうと思ったときに、よく知っている本ということでまずこの本を買いに行った覚えがあります。そして、その後、別の本をたくさん見つけてしまい中々読む機会がなかったのですが、今年に入ってやっとこの本を読むことができました。
そして今読んでも、10年前と同じように、すごい話だなと感じました。
この手の本は、単なる感動物語ではなく、今までその世界を知らなかった人にある種の理解というか考える機会を与えるという意味で非常に重要な役割を持っていると思います。著者であるトリイ・ヘイデンがどれだけ素晴らしい先生だったかということが重要なのではなく、たとえば、6歳という、日本でいうなら小学生になって少しずつ自分の世界が広がりはじめる時期に、恵まれない家庭環境のために他の子とは違った生活を送らなければならず、そのために小さいなりに自分の身は自分で守る術をすでに身につけていることがどれだけ悲しいことか、そしてそんな子供達や障害を持った子供達も他の「普通の子供達」と何も変わるところがなく愛すべき存在であるということを伝えることが大事だと著者は考えたのではないでしょうか。
話は変わりますが、私はこの土地にきて、街でたくさんの障害者達を見かけるようになりました。
いやきっと日本にも同じようにたくさんいるのでしょう。でも普段見かけることはほとんどありません。この土地では障害者達だけではなく、お年寄りも電動車椅子に乗って、そのままバスに乗ってどこかに出かけます。大学でもたくさんの障害者を見かけます。彼らは必要な分だけ助けを借りながら、他の子達と同じように勉強をしています。すべてが普通の光景です。一方、その「普通さ」を得るのも難しい立場の人達がいます。彼らは自分の力で自分の問題を克服しないといけません。私は専門家ではありませんし、彼らにできることはほとんどないでしょう。だからせめてその「克服」をより難しいものにしないようにする努力が必要ではないだろうか、というのが一連の本を読んだときに私が感じたことでした。
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